茂木ビワゼリー誕生物語
古代、中国より長崎に渡り珍重された「びわ」。
「長崎の気候風土が育んだびわを一年中楽しんでほしい。」そんな想いから生まれた「茂木ビワゼリー」。
それはまるで長崎の空に煌めく太陽のような容姿です。びわは、えぐみを残さないようひとつひとつ丁寧に渋皮を取り除き、ゼリーは、びわの芳醇な風味をいかすよう、つるりと滑らかに仕上げました。びわの変色を防ぐため、中身の見えないアルミの袋を用いるのも、素材の特徴を知り尽くしたが故。立夏の頃、初物のびわをむいて食す、あの喜びと重ね合わせるのもまた一興。長崎の風情をぎゅっとじ込めた、趣ある一品なのです。その人気の「茂木ビワゼリー」の誕生にまつわる歴史話をご紹介いたします。
びわの歴史は、とても古く「奈良時代」天平宝字(757)~奈良正倉院文書の中に、びわの事が記載されているようです。また「室町時代」延元年間(1336)以降には大阪・和歌山・千葉のほかにもびわの栽培が行われていたそうです。
「江戸時代」天明・天保の頃(1784~1835)年代的には隔たりがありますが、「ツユンベリー」、「シーボルト」は、日本の植物を著書に記録し、その中にも「びわ」のことが記載されているようです。
茂木びわの始まりについては、まず三浦シヲさんのお話から始めなければなりません。時は江戸時代から明治時代へと時代を駆け抜けてきた女性。三浦シヲさん(1818~1897)は、茂木村・北浦名字元木場の生まれ。通称シオとも呼ばれているが、実名・戸籍上の名前は、「ワシ」だったそうです。
行儀見習いとして、長崎代官屋敷に奉公していた頃、中国から入稿した唐船の船主より、長崎代官へ「びわ」が贈られました。代官より、シヲさんは、その種子を貰いうけ茂木に住む甥、山口権之助氏にその種子を託しました。山口氏は、屋敷の隅へ種子を蒔き、丹精込めて作ったのが「茂木びわ」の原木の始まりです。
その後は、多くの人々の手により、今日の「茂木びわ」へと成長し、茂木地区を中心に広がり「茂木びわ」へと成長し、茂木地区を中心に広がり「茂木びわ」という品種が本県で最も多く栽培されるようになりました。
一方シヲさんは、熱烈な恋愛の末30歳で結婚し子宝にも恵まれ、1897(明治30)年81歳でこの世を去りますが、幸福な生涯をおくったと伝えられています(お墓は茂木の浄土宗松尾山王台寺の中にあります)。
「茂木びわ」は、1897(明治30)年以降には本格的な栽培が始まり、昭和に入り戦時中は一時面積が減少したものの、戦後は再び面積を拡大し、現在では、千葉を始め中国・四国・九州各地で生産されるようになり、長崎県においては全国1位のシェアを占める主要な特産品となっております。近代では、新品種も育成され発展へとつながっています。
1984(昭和59)年、当社6代目社長・榎 巍(えのき たかし)が1年を通し多くの方々にこの「茂木びわ」を味わって頂きたいという一心で開発誕生したのが「茂木びわゼリー」の始まりとなります。
当初は、びわの実を切り刻み、カップ入りでテストしておりましたが、やはり「びわ」は、まるごと食べるのが一番。カップ入りだと光が入り実も酸化しやすいため、研究を重ねていく内に、びわは皮をむいて食べる果物、袋から取り出していただくことは、びわの皮をむいていただくことをイメージし、みずみずしさを目で味わっていただき、そのまま「つるん」とお口の中に運んでもらえたらという気持ちで、今日のアルミ・和紙に入った「茂木ビワゼリー」となりました。
※びわは、国産の茂木種でその年に収穫されたものだけを使用。
※採れたての美味しさを一年中保つため、余計な手を加えず缶詰にして保存します。
※ゼリーには、口当たりの良さ、清涼感を考慮して果糖のみを使用しています。